@article{oai:kokubunken.repo.nii.ac.jp:00003909, author = {一戸, 渉 and ICHINOHE, Wataru}, issue = {39}, journal = {国文学研究資料館調査研究報告, Report on Investigation and Research}, month = {Mar}, note = {pdf, 幕府老中首座として寛政の改革を主導し、将軍家斉の補佐役を務めた、白河藩第三代藩主松平定信(一七五八~一八二九)は、文政六年(一八二三)頃に執筆した『修行録』のなかで、以下のように述べている。 源氏ものがたり計も七部かき、廿一代集二部、八代集一部、万葉集は両度、三代集のたぐひ、さごろも、いせものがたりなどいくつかきけん、忘れにけり。六家集も五度ばかんもかきにけん。 定信の古典愛好の深甚さを語るものとしてしばしば参照される文章だが、これまでに果たして何度まで書写に及んだのか忘れてしまうほど慣れ親しんだ古典のひとつに伊勢物語が挙げられているのは、注意されてよい。事実、定信が筆写した伊勢物語とその注釈書は一定数が現存している。 晩年の定信は寸暇を見つけては古典の書写に励んでいたようだ。文政元年(一八一八)十月十二日、当初の予定よりも早く『源氏物語』の筆写(生涯六度目にあたる)を終えた定信は、「又何をかゝんと、この比よりかうがへぬるも、げに写病とかいふやまひ也けり」と自嘲気味につぶやいている(『花月日記』)。 この「写病」(「うつしやまい」と訓読みすべきか)なる語は、管見の限り同時代の他の文献に一切見えず、定信の造語かと思われる。 本稿では定信晩年における、こうした「写病」の症候のひとつである伊勢物語の筆写活動について俯瞰的な検討をおこない、それら一連の営みを近世期の学芸史上に定位してみたい。}, pages = {49--61}, title = {シンポジウム報告: 松平定信の伊勢物語筆写活動とその周辺}, year = {2019}, yomi = {イチノヘ, ワタル and イチノヘ, ワタル} }